「世界を変えた書物」展のすばらしいコレクション

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 東京上野公園の「上野の森美術館」で「世界を変えた書物展」を見てきました。

 これは科学の歴史に大きな影響を与えた書物を一堂に集めたもの。すべてオリジナルの本物。教科書のどこかで名前を聞いたことのある人達が,自分の考えを発表したときの論文や本です。





 入り口の図書館風の展示の片隅にマリー・キュリーの肖像とサインがありました。



 ここから書物の世界に入っていきます。全200冊のすべてを紹介することはできませんので,私が特に興味を持ってきた分野に絞ってほんの一部を紹介します。これらはすべて金沢工業大学のコレクションです。



 ニコラス・コペルニクス(1473-1543)の『天球の回転について』(1543,ニュールンベルク)。彼はそれまでの「地球を中心にすべての天体が回転している」という理論では「惑星の位置を正確に計算しようとすると,地球と惑星までの距離に矛盾が生じてしまう」ことに気がつきます。その矛盾をなんとか解消しようとして「太陽のまわりをすべての天体が回転している」という理論を打ち立てたのです。ここから天文学は新しい時代に入りました。



 コペルニクスを受け継いで,太陽中心説をさらに発展させたガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の『星界からの報告』(1610,ベネチア)。望遠鏡という新兵器によって,コペルニクスの仮説は実証段階に入りました。「地動説」の正しさを大いに高めることになった本です。ガリレオの本は当時の科学者の慣習であったラテン語(古代ローマ帝国の言葉。当時の学問上のヨーロッパ共通語)ではなく、イタリア語で書かれています。ガリレオが一番自分の考えを伝えたかったのは、自分の回りの普通の人々であったのでしょう。



 そしてガリレオが地動説の研究結果をまとめた『二つの世界体系に関する対話』(1632,フィレンツェ)です。通称『天文対話』。この本が罪であるとして,ローマカトリックの異端審問裁判にかけられることになり,この本は発行禁止となりました。この裁判の判決で,ガリレオは死ぬまで幽閉生活となります。宗教が人間の「考える自由」を奪った大きな事件でした。
 この扉絵は、左側のプトレマイオスが持っている天動説の模型を、右側のコペルニクス(太陽中心の模型を持っている)に引き渡そうとしているところ。真ん中の仲介者がガリレオ。



 ヨハネス・ケプラー(1571-1630)の『新天文学』(1609,プラハ)ラテン語。ケプラーはガリレオと同時代の人で,お互いに手紙のやりとりをしています。ケプラーはチコ・ブラーエの観測データをもとに,ついに惑星の軌道を割り出すことに成功。その結果をまとめたのがこの本です。ケプラーは,この本で古代から信じられていた「天体は円を描いて回転する」という説が間違いであることを証明しました。彼の「惑星は太陽を中心に楕円を描いて回転している」という説は,これまでとは比べものにならないぐらい,惑星の位置を正確に計算できる理論でした。ここから従来の「天動説」が捨てられていく過程が加速していきます。
 しかし,ガリレオはこれをケプラーから聞いても,「天体の軌道が楕円軌道なんて不完全なものであるはずがない」と否定してしまったのは歴史の皮肉です。



 アイザック・ニュートン(1642-1727)の『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』(1687,ロンドン)ラテン語。
 ケプラーの「惑星運動の法則」とガリレオの「落下運動の理論」などを受け継いで,いわゆる「ニュートン力学」を完成させた本です。
 この本で,「天体も地上の物体も〈万有引力〉という同じ力によって運動している」ことを明らかにしました。これによって宇宙と地上は「力学的世界」として統一されました。
 ただしこの本の手法は伝統的な幾何学的計算方法で,実用性には欠けていました。
 その後の科学者たちによって各国語に翻訳され,ニュートンの力学をもっと使いやすいように微分・積分の方法が整備されていきます。
 またニュートンは「万有引力は物体の間を瞬間的に伝わる」としていたため,長く批判を受けることになります。これは後にアインシュタインの「一般相対性理論」の「重力の場」の理論で乗り越えられます。



 ガリレオやケプラーと同時代のウイリアム・ギルバート(1544-1603)の『磁石及び磁性体ならびに大磁石としての地球の生理学』(1600,ロンドン)。通称『磁石論』。ギルバートはこの本で地球自体が一つの大きな磁石であることを証明しました。イギリスが世界の海に乗り出した結果,世界各地の磁力の様子が分かってきたことも,こうした研究ができた理由でしょう。この頃からイギリスが近代的実験科学の中心となって発展していきます。



 ニュートン力学の応用の一つの例。
 ダニエル・ベルヌーイ(1700-1782)の『流体力学』(1738,シュトラスブール)。この本のタイトルの「ハイドロダイナミクス」は彼の造語だそうです。形が定まらず捉えどころのない「流体」という物質の運動法則を明らかにした本です。水道システムからお風呂や流しの排水管からダムの水流や飛行機が飛ぶ仕組みまで,現代社会を支える理論です。



 オットー・リリエンタール(1847-1931)の『飛行術の基礎となる鳥の飛翔』(1889,ベルリン)。ライト兄弟に大きな影響を与えたリリエンタールの研究書。飛行の原理は流体力学そのものです。彼はこの研究をもとにグライダーを作り,自ら飛んで実験を繰り返していました。実験中に風に煽られてバランスを崩し,墜落事故で亡くなりました。



 リリエンタールの死のニュースはライト兄弟に,大きな衝撃を与えそうです。ライト兄弟はリリエンタールのグライダーには「操縦装置」と呼べるものがないことに気がつき,どんな条件でもバランスを崩さない操縦システムを考案します。これと飛行機に積める軽いエンジンを開発し,1903年に世界で最初の飛行機を作りました。
 この本はウィルバー・ライト(1867-1912)の『航空実験』(1901,シカゴ)です。



 ロバート・ゴダート(1882-1945)の『液体燃料推進ロケットの開発』(1936,ワシントン)。宇宙時代の先駆者です。彼が1920年に『高々度に達する方法』で,真空の宇宙でもロケット噴射で飛べることを主張したところ,ニューヨークタイムズが「真空の宇宙は物質が無いから作用反作用で進むはずが無い」とする反論社説を載せたことは、有名なエピソードです。どちらが正しかったかは,現代の皆さんならご存じですね。



 ウィルヘルム・コンラート・レントゲン(1845-1923)の「新種の輻射線について」(1895,ビュルツブルク)。エックス線発見の論文です。彼の妻の手のレントゲン写真と共に,この論文はヨーロッパ各地の科学者に送られ,大きなセンセーションを引き起こしました。放射線の研究のすべてはここから始まります。



 ピエール・キュリー(1859-1906)とマリー・スクウォドフスカ・キュリー(1867-1934)の「ピッチブレンドの中に含まれている新種の放射性物質について」(1898,パリ)(矢印の部分が論文のタイトル)。キュリー夫妻は「ウラン鉱石から出る放射線が,ウラン原子だけだと強すぎる」ことに気がつきます。そこから未知の放射性原子の存在を予想し,ラジウムとポロニウムを発見しました。「放射性原子」という新しい物質の世界の始まりでした。



 アーネスト・ラザフォード(1871-1937)の『放射性変換』(1906,ロンドン)。ラザフィードはソディとの共同研究で1903年に「放射線を出すと原子は別の原子に変身する」という説を発表しました。これはその後詳細をまとめた本です。それまで2000年以上の間「原子は決して変わらない基本粒子」と考えられてきたのですが,それを覆す大発見でした。



 ラザフォードの「軽い原子とアルファ粒子の衝突」(1919,ロンドン)。ラザフォードはアルファ線を原子にぶつけて,原子の中を探ろうとした先駆者です。現代の科学者も「加速器」という装置で同じことを大規模にやっていますね。



 ロバート・A・ミリカン(1868-1953)の「電子,陽子,光子,中性子および宇宙線」(1935,ケンブリッジ)。放射線の研究に霧箱が使われています。この写真は原子に陽子を加速してぶつけて破壊した様子です。



 レントゲン以来の放射線研究の一つの区切りとなった研究です。
 オットー・ハーン(1879-1968),フリッツ・ストラスマン(1902-1980)の「低速中性子によるウランの核分裂」(1939,ベルリン)。ウランの核分裂現象の発見報告。不幸にも、ちょうど時代は第二次世界大戦。核分裂の発見で,原子核内部の巨大なエネルギーを使う道が開けました。原子力時代の始まりです。


 所々にこんなオブジェもありました。






 人類の歴史では残念ながら弾圧され,燃やされ,書名しか伝わっていない,消えてしまった本もたくさんあります。こうして本物を見ると,時の試練を乗り越えて今これらの本が存在していることの素晴らしさを感じます。
 紙と印刷という発明がいかに人類の知的進歩の力になったかも分かります。今は本も電子化が進んでいますが,手にとって自由にめくることができる〈本という形態〉は,消えることがないのではと思います。


 この展覧会は9月24日まで開かれています。ぜひ本物を見て感じてください。

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コメント

  • アルマゲストは?

    プトレマイオスのアルマゲストは有りませんでしたか?


  • ありました。

    『アルマゲスト』はレギオモンタヌスのラテン語訳1496年版が「古代の知の伝承」というコーナーにあります。


  • 23歳のとき

    コペルニクスが23歳の頃に出版されたのですね。


  • そうですね!

    そうですね!この訳が最初のラテン語訳だそうですから,それまではギリシャ語原典しか読めなかったのかな?あるいは活字印刷で量産されたということが大きいのかもしれません。若いコペルニクスも読んだのかもしれませんね。


  • 借りて読んでみましたが

    アルマゲストのWIKIによると、
    (トラペヅンティウスによるラテン語版、1451年頃)
    というのが書いてありますから、それより45年前みたいです。

    原典はギリシャ語で、残って無い。

    アラビア語訳もあるらしいですから、いろいろな言語に翻訳されたのでしょうね。

    日本語版は、新潟県立図書館に有ったので、借りて読んで見たのですが、何が何だか判りません。


  • 行きたいですが

    抜粋が今月のNEWTONに載っていて、本物を見に行きたくなってます。が、時間が取れません。;_;



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