五色園の浅野祥雲 前編

Tag: 芸術 カバの旅 浅野祥雲 五色園 K1Ⅱ

GWを利用して,愛知県日進市にある五色園(ごしきえん)に行きました。目的は名古屋のコンクリート像作家浅野祥雲(あさのしょううん)の作品を見ること。
 浅野祥雲については過去の記事で岐阜県の関ヶ原ウォーランド愛知県犬山市の桃太郎神社静岡県熱海市の熱海城と3カ所を巡っています。
今回は私の近隣で大規模な作品が見られる最後の場所です。

 五色園は浄土真宗のお寺に併設された広大なテーマパークです。浄土真宗の開祖である親鸞聖人の伝説が混じったエピソードの数々を,コンクリート像で再現したものです。
 これらの像は昭和5年(1930年)頃から10年かけて製作されました。もう90年近くの昔ということになりますね。
 像はおよそ100体。1回では紹介しきれないので,今回は前後編に分けることにしました。なおページ末の地図には今回見た像の位置をGPSで記録した結果も載せました。

もくじ

 最初に園内の地図です。これで確認しながら像を探しました。
五色園内図
 この地図は奥のお寺の本堂でもらえますが,私たちは今回五色園のHPにあった地図を印刷して持って行きました。地図無しで広大な園内に点在する像を探すのはかなり大変です。
 今回は入り口から右半分(東側の道路沿い)の紹介です。

月見の宴(つきみのえん)


入り口からすぐにあります。
親鸞は生まれてから全く声を出さなかったのですが,2歳のときの十五夜。月見の宴が行われました。そのとき親鸞は初めて声を出し「南無阿弥陀仏」と言ったのです。一堂驚き,喜んだという場面。

赤山明神貴婦人邂逅(せきざんみょうじんきふじんかいこう)


親鸞26歳の時,比叡山へ向かう途中,山中で信心深い貴婦人に会い,比叡山に一緒に行ってほしいと頼まれました。親鸞は「女人禁制の掟がある」と断ったところ,貴婦人は「女性にも開かれた仏法を」と言い残して立ち去りました。親鸞はこれに大きな影響を受けました。

信行両座 (しんぎょうりょうざ)


蓮生坊が師匠法然の集まりに遅刻。走ってます。
これは浅野祥雲らしい動きにあふれた作品です。


この集まりは法然が出したお題,極楽往生には「信心(信)」が大事なのか,「念仏を唱えること(行)」のどっちが必要か?という問に答えて2組に分かれたようすです。左側の人たちは「行」で,右が「信」。
 法然の出した正解は右側の「信=信じること」でした。親鸞と遅刻した蓮生坊は「信」を選んだという場面。左側の人は「はずれた~~」と険しい顔。カバも正解を選びました。

桜が池大蛇入定の由来 (さくらがいけだいじゃにゅうじょうのゆらい)


法然の師匠が大蛇に変身してしまったと聞いて、会いに来たところ「すでに手遅れ」と後悔の涙で水底に戻ったという場面。
悟りを開くのが待ちきれなかったのですね。

お田植え(おたうえ)


親鸞が田植えを手伝いながら,分かりやすく教えを説いたという場面。カバも田植えです。


苗の束を運ぶ若者。

縁結び弁財天(えんむすびべんざいてん)


親鸞とは関係ないですが,カラフルな弁財天。

身代わりの名号 (みがわりのみょうごう)


浮気を勘違いした夫が,信心深い妻を切って死んだと思って家に帰ったら,親鸞が書いたお札が切られていて、妻は死ななかったという場面。夫は改心し信仰を深めたそうです。

川越の名号(かわごえのみょうごう)


親鸞一行が川の向こう岸へ渡ったとき,対岸で分かれを惜しんで何か書き残してほしいと頼む。


親鸞が筆で空中に字を書くと,南無阿弥陀仏の文字が現れたという場面。

鹿ヶ谷鈴虫松虫の剃髪得度(ししがたにすずむしまつむしのていはつどくど)


親鸞たちの前に人が。刀を抜こうとする従者。
止める親鸞。


それは親鸞の教えを聞きに来た,鈴虫と松虫の2人でした。


2人は親鸞の教えを聞いて出家してしまいました。


彼女たちを親鸞に取られたと後鳥羽上皇が怒って親鸞たちを流罪に。

物語は続きますが,今回はこの辺で。また次回。
 どの像も90年の年月を感じさせない,良い状態に塗り直され修復されていました。これは「浅野祥雲再生プロジェクト」の活動のたまものです。

参考文献

・大竹 敏之『コンクリート魂 浅野祥雲大全』,青月社2014
81Ekg3EWMaL._SY385_.jpg(Amazonのリンクです。)

このエントリーをはてなブックマークに追加
LINEで送る

コメント


認証コード6740

コメントは管理者の承認後に表示されます。