法律が作る不幸を放置してはいけない

Tag: 科学教育 社会の科学 基本的人権 LGBT

離婚強制裁判
「法律は守らなければならない」はいつも真理である訳ではありません。それは「人権に反しない限り」という条件付きです。
「基本的人権に反する法律は守らなくていい」というのは、社会の科学的考え方の基本原理。私が板倉聖宣(いたくらきよのぶ)さんから学んだことです。
 板倉聖宣さんは科学史家、科学教育の研究者で仮説実験授業を発明したことで有名です。
 私は昭和から平成に代わる1989年1月の冬に、仮説実験授業研究会の大会で板倉さんの話を聞きました。当時は「天皇の御容体」一色の報道で、祭りやイベントなど、人々が楽しむ行事がなぜか次々に自粛されていったのでした。「自粛」という名の「強制」がその時の日本で蔓延していたのです。
 そのようなとき、板倉さんは「最後の奴隷制としての多数決原理」という話をしました。私はこの話を聞いていて、鳥肌が立つような感情を覚えました。
 民主主義というと「多数決で決まったことには従わなければならない」と多くの人が思っているのではないでしょうか。これは学校教育でも、クラスで何か決めるときによく使われ、多くの教師もそれが正しいと疑わず、国民に刷り込まれているのではないかと思います。
 いろんな人がいるのだから意見が違うのは仕方が無い、だから多数決で多くの賛同を得たことをみんなで実行していくという方法は一見正しいように思えます。
 しかし、これには問題点もあります。それは「多数決で負けた少数派にも実行を強制する」という問題です。「そんなの仕方が無い」と多くの人は疑問に思わないでしょう。
 でも板倉さんは「嫌なことをやらせられるのは奴隷にされることだ」というのです。「奴隷とは意志に反することをやらされる状態」です。
 このことを無視して多数決でどんどん物事を進めていくのは、本当に正しいことかと板倉さんは問います。
 多数決で決めなければならないのは「本当にやむをえないこと」に限ります。そしてそれでも「少数派にはやらない自由」が必要です。「多数派の邪魔はしないけど、やらない自由はあるからね」というのが、多数決の正しい使いかたです。でないと、多数決によってどんどん少数派の不満がたまって、集団内の矛盾や対立が強くなるでしょう。そして集団は分裂し、争いとなります。

 さて、国レベルでは国会の多数決で多くの法律が作られています。「多数決で決まった法律なんだから仕方がない」で本当に、この世界で問題は発生しないのでしょうか。
 民主主義以前に、絶対譲ってはならないことは、「法律によって不幸を作り出さない」ということです。それは「法律はある人の人権に反することもあるのだ」という事実を無視しないという姿勢です。
 民主主義が本当に私たちの幸せを増大させるものにするには「少数派の不幸を見逃さない、放置しない、見ないふりをしない」ということが決定的に重要です。でないと民主主義は「少数派を奴隷にする制度」に成り下がってしまいます。そうならないために必要なのが「ヒューマニズム」、つまりその人の基本的人権を守ることです。

「基本的人権」とは「誰でも人間は自分の幸せを追求するようにできている。そういう生物なのである」という事実を言っています。人権は「神様が与えた何か」ではないです。「人間はそうなっている」という科学的事実です。
 「法律が不幸を生み出している」ならば、その法律は変えなければならないというのが、本来の立法府の仕事であり責任です。
 完璧な法律はありません。それは人間がその時、その時で考え出したものに過ぎません。運用して矛盾が生じたら直すのが当たり前です。
 法律は「その時の多数派の仮説」に過ぎません。それが正しい方法かどうかは「実験結果」で決まります。実験結果で誰かが不幸になるなら、また新しい仮説を立てて実験して進んでくしか、「本当に正しいこと」は見つかりません。
 法律という仮説が正しいかどうかは、多数決ではなく実験結果で決まることです。実験結果が間違っていたら、法律の誤りを認めて予想変更すれば良いのです。予想変更は裏切りでも偏向でもありません。真理は多数決ではなく実験結果で決まるものである以上、予想変更は当然の行為です。むしろ悪い結果が出ているのにそれを認めないで予想変更できない人の方が、硬直化して、世の中に害悪をもたらす存在です。政治家は実験結果で物事を判断し、予想変更が自由にでき、仮説ー実験的に物事を進めていくのが、正しいやり方です。これを仮説実験的認識論と言います。今の政治家のいったい何人がこの社会の科学の基礎中の基礎が分かっているでしょうか。

 上に画像リンクで貼ったこのケースでも「法律が不幸を発生させている」ということは明らかです。だから「法律だから仕方がない」「そんなの少数派のことだから自分には関係ない」ではなく「不幸を無くすように法律や制度を修正しよう」という主張をしなくてならないのです。
 「法律だから仕方がない」は誰かの決めたことには従わなくてはならないという「奴隷の発想」です。
 「きまりだから」と「嫌なことを押しつける」のは「他人を奴隷にしているのではないか」とよく考えてみましょう。それがより住みやすい、不幸が少ない世界を作る発想です。

参考文献

・「最後の奴隷制としての多数決原理」など板倉聖宣さんの講演が収録された本。
(Amazonのリンクです。)
社会の法則


板倉聖宣の考え方


牧衷(まきちゅう)『運動論いろは』季節社、1998年。
この本のII章の1「多数決原理について」には、「日本の組織や運動では多数決で何かを決めると、それに反対した人間=少数派の人間に対しても「多数決で決まったんだから」といって、事を押しつけてやらせる」ことは「これは全然けしからんのじゃないか」と述べています。この本は運動一般のおもしろさに満ちた本です。
運動論いろは

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